タイトルの通り、昨日放送回の感想を。
この番組、まともに見たのは今回が初めてなんですけど、
テーマが興味深い(一応、
こういうのも書いてますし)と思って期待した割りには、イマイチかなぁという感じでした。
で、どの辺がよろしくなかったのか。
1.国家を意識することが無い?え?
誰が言ってたか忘れました(複数人だったような・・・)けど、
えっと、消費税増税とか法律とか、国家(というか政府)を意識することって、ちょくちょくあると思うんですけどね。
まぁ、国家っていうのが、「世界の中での日本という国家」として見た時にって事なら、
確かに、そんなにないとは思いますけど。
とりあえず、「定義」ちゃんとしましょうよ。
「グローバル化」でも、オーディンス(会場にいる一般の人々)にも突っ込まれてましたけど。
2.ネット革命とかネット選挙とか
否定はしない(というより出来ない)ですけど、
ネットも、銀の弾丸の一つに過ぎないっていう視点を持つ事は、大切だと思いますね。
3.学者系と実業家系の断絶
番組中でも、話に出ていましたね。
とはいえ、これ自体は別に驚くことでもないとは思いますけど、
間に入れる人がいなかったかも。
まぁでも、ココって一番人材不足の立場だと思うので、仕方ないかもしれないですけど。
4.人選について
テーマがテーマなだけに、もう少し色々な分野の人がいた方が良かったかなと。
サブカルチャー系の人とか、あとマツコさんとかは、ダメだったんですかね。
5.結局、何を言いたかったの?
どうも、結論が出ていないまま、終わった印象なんですよね。
で、なんでこうなったかっていうと、
ボトムアップ的に、一人一人が自分の意見を言って、
それらをまとめきれなかったからじゃないかと。
あと、議題が多過ぎる(これはテーマが大きい話なので、仕方ない部分もありますけど)。
で、ちょっと考えてみたんですけど、
議題が多くなりやすいテーマで議論する時に、
一つ一つ取り上げていったら、2時間半じゃとても終わらないだろうと。
だから、議題を設定して考えるというよりは、
「人の活動」という観点からトップダウン的に考えて、
「どういう役割の人が、どういうことをしていけば良いのか」という風に考えた方が、
概要程度で終わるかもしれないですけど、まだ話がまとまったのではと思いましたね。
で、上記のリンク先でも出てきますし、
最近、ちょくちょく話している概念ですけど、
一人一人の役割を考えるのに、
「秩序・中立・混沌」という概念(フレームワークといっても良いかも)を用いるというのは、
意外と有効なのかもと思いました。
このフレームワーク自体の妥当性がどうかというのは、勿論ありますけど、
形がシンプルなので、理解しやすいというのもありますし。
あと、これ「ゲーミフィケーション」ですね、まさに。
いや、ゲームが発祥じゃなかったら、話は変わってきますけど。
ということで、個人的には、このフレームワークをもう少し整理して、
有効活用(会社とかプロジェクトでも、要は複数人が関わるものなら使えると思うので)していきたいと思いました。
これで、メガテンとD&Dの優先順位が上がりましたねw
スポンサーサイト
テーマ:日記 - ジャンル:日記
- 2014/01/02(木) 22:59:23|
- 思想
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
さて、まずは注意点を。
ツイッターの方でもちょくちょく呟いていたんですけど、
「思想の差異が問題じゃない、倫理と道徳観が低下しているのが問題だ」という話なんですけど、
これ、今回の元ネタの真・女神転生Ⅳ(以下、メガテン)では、
思想的な話しか出てきていないんですよね。多分。
なので、ちょっとごっちゃにすると難解になるということで、
今回は思想についてのみ書いてみたいと思います。
じゃあ、本題に。
望ましい社会のカタチというのを考えてみたいと思います。
といっておきつつも、望ましいカタチなんていうのは個人によって違いまして、
むしろ、どういうカタチを望むのかを考えるって方が大切だと思います。
そういった意味で、メガテンは良い役割を果たしていると思いましたね。
プレイヤー(ゲームをしている人)に対して、上手に「ナビゲート」してくれてます。
ゲーム中で出てくる、秩序を重んじる(ロウ)思想、
個々の自由を重んじる(カオス)思想、
上記どちらにも属さない(ニュートラル)思想。
正直、それぞれにメリット・デメリットがあって、
結局は、「個人の好みで決まる」んだと思うんですよ。
なので、上記3つそれぞれの「特徴」を、以下に書いていってみたいと思います。
1.ロウ
顕著な特徴として、
「場や治安が乱れないので、平和が保たれる」というのがあると思いまして、
これはこれで、確かにそうだと思うんです。
あとは、「誰にとって」平和が保たれるかでして、
ゲーム中でも出ていましたけど、高級階級と低級階級みたいなものがありまして、
低級は高級の言う事だけ聞いていれば良いと。
100歩譲って、高級が「とてつもなくしっかりしている」なら、
まぁ、これでも良いんじゃないかと思うんですけど、
個々の望んでいる事を全部吸収して、その上で平和を成立させられるのかという疑念が生じますね。
仮に、高級と低級で、同じ本が欲しいという状況になって、
でも、その本は高級にのみ読ませられる本だとしたら、
その時点で、不公平になっちゃうじゃないかと。
なんで、同じ人間なのに、低級は読んじゃいかんの?って。
生まれた階級だけで人生決められてしまうのは、
低級にとっては、納得いかないと思いますね。
そこには、まるで「自由」も「選択権」も無い。
「夢」を望んだところで、高級が考えてあげるから、何も考えなくて良いですよと、
一蹴されてしまうわけです。
なので、最初の方に書いた、「誰にとって」っていうのは、
「高級にとって」となってしまうわけです。
ちなみにコレ、高級の子供は良いんですけど、
低級の子供も犠牲になりますね。
夢を考えることさえ出来ない子供、可愛そうじゃないですか。
ただ、「こうやってやれば、ロウの人間だけでも成立させられる」っていうのがあれば、
是非、ご意見を聞いてみたい所ではありますね。興味はすごいありますから。
僕的には、「良い悪いの話じゃなくて、上手く成立させられるイメージが沸かない」ってだけですので。
2.カオス
「自由」、すなわち「やりたい放題」。階級や性別ではなく実力こそ全て。
とても魅力的な言葉に感じる人も多い(上記の、低級の人間の方々だと思いますけど)と思います。
ところが、これはこれで問題がありまして、
単純に、実力が無い人どうすんの?と。
「保護」なんて言葉は、カオスな思想には当然無いと思うんですね。
なので、当然死んでいくと思うんです。
で、これ、当然自身にも当てはまる話なので、
自分が死なない為に、自分の強みを伝授しないで、ライバル増殖を防ぎにいくと。
少なくとも、正直僕がこの思想なら、そういう行動取りますね。
だって、死にたくないですから。
ただ、人類の歴史において、あらゆる事を「伝授」っていうのは当然あったから今があると思いますので、
こちらは、継続性が怪しいんじゃないかと思いますね。
なので、カオスもロウと似ていて、
「こうやってやれば、カオスの人間だけでも継続させられる」っていうのがあれば、
是非、ご意見を聞いてみたい所ではありますね。
いや、割と本気で。
3.ニュートラル
「中途半端」とも言えるし、「バランスが取れている」とも言えるし、
「自然」とも言えると思います。
欠点としては、「過保護」な人や、
「自由重視」な人には厳しいと思いますね。
カオス程ではないんですけど、
「自分でどうにかしろ」という側面がありますし、
かといって、「自由ばかりでもないよ」という側面もありますから。
個人的には、ニュートラルだけなら、無理なく成立して継続させられるのではと思うんですけど、
これだけ「弱体化」している日本の現状を見るに、
多分、それも難しいだろうなぁと思ってます。
ちなみに、福澤諭吉の学問のすすめって本が言ってるのは、
みんなニュートラルを目指せって事の様に感じましたね。
で、日本に関して言うと、
ロウの人間が大多数で、ニュートラルとカオスが殆どいないという感じだと思うんですよね。
選挙結果にも、よく出ていると思いますけど。
そりゃあ、「"みんな"に合わせましょう」で教育されてきているんですから、無理もない。
ってことで、「本来「政府」や「企業」の上の人が考えなきゃいけない話」(ココが今回の話で最も重要な部分です)だとは思うんですけど、
比較的、無理の無い落としどころを考えてみたいと思います。
まず、ロウについて。
「弱いからダメなんじゃない、弱いことを認めないのがダメなんだ」って一言で終わると思うんですよ。
例えば、「自分は収入は沢山要らないから、コンビニのレジ専門の店員として生きていきたい」という人がいて、
そうすると、最低限「レジを打てればOK」なわけですよ。
賃金の中に、「レジを打つ以外にも、初歩的な接客対応を求められる」というのが織り込まれていたら、話変わりますけど。
要は、「これだけの収入や権限が欲しいなら、これぐらいの仕事が出来なければいけない」というのがありまして、
それさえ出来て、あとは自分の周囲の人間に極力迷惑かけない様に生きていけば、そう問題ないと思うんですよ。
だから僕は、みんながみんな狂った様に勉強しなきゃいかんとも思ってませんしね。
ところが、ロクに出来もしないのに、やれイノベーションだの承認欲求満たしたいから目立ちたいとか、
頭大丈夫ですかって話なんですね。
これだけロウに染められて「思考能力」奪われているのに、イノベーションなんて無理に決まってますし、
承認欲求なんて、誰だって欲しいと思ってるんですよ。
それが、なんで「自分だけ沢山与えてくれ」なんですかね。
欲しいんなら、まずは落ち着く所から始めるしかないと思いますけど。
あと、本来ロウじゃなくてニュートラルじゃないと(公平な視点とジャッジが必要なので)な存在の、政府・マスコミ・警察・裁判関係・企業の上の人など。
冤罪とか、意図的に情報歪ませたりとか、ロクなことしか出来ないなら、
組織畳んでしまえとか思っちゃいますね。
まぁ、「何もしない」ぐらいが、一番良いんじゃないですかね、それなら出来るでしょ。
裁判になっても、「私は無能で、まともなジャッジ出来ないから、当事者同士で解決して下さい」と。
といっても、それじゃあさすがに困るから「学べ」ってことなんだと思います。
あと、アメリカや中国に負けない為にグローバル的にとか。
まぁ、勝てるわけないと思いますよ。
ココ
http://yokichi.com/essay.html の、特に国際文化とかMBAの部分を読むと、特に良いと思いますけど。
全然違うんですけど、でもそれで良いんですよ。アメリカの思想が好きなら、アメリカに行けばいい。
でも、同じ様な国にしちゃったら、選択肢減っちゃうじゃないですか。
日本の強みとして、「治安の良さ」っていうのを武器にすれば良いんじゃないかって思いますけどね。
それなら、治安を求める外国人は、日本に来るでしょうし。
次に、カオスについて。
先に書いた様な、属人性を保とうと保身に走るのは論外として。
良い小説とかゲームとかアニメとかを生み出しているのは、カオスな人じゃないかと思うんですよね。
要は、真のクリエイターは、多分カオスが多いと思います。
まぁ、体調に気を付けて下さいとしか。
カオスな人はあんまり気にしないのかもしれませんけど、
やっぱり過負荷になりがちなんじゃないかと思いますので。
最後に、ニュートラル。
とにかく、母数が少ないというのが、最大のネックかと。
あと、さっきも書きましたけど、本来ニュートラルでなきゃいけない人が、見事にロウになっちゃってる所も。
なんで、母数が大事かというと、
ニュートラルな人間でも、「裁判官なんかしたくない」って人も当然いるわけで。僕もそうですけど。
でも、母数増えれば、自然と望む人も出てくるでしょうと。育つ環境違うんだし。
結論としては、ロウはロウのまま黙っているか、ニュートラルに教わったり自分で学ぶかして、
ニュートラルは、公平な視点やジャッジを意識して、ロウとカオスの調整にあたり、
カオスは、人々を感動させる様なモノを生み出すといった所じゃないでしょうかね。
あと、「教育」の改善が急務だなぁって所ですね。
教える人間が、上に立つ人間が、ニュートラルじゃないって時点で、既におかしいと思いますから。
メガテン、学校の授業に取り入れたらとか思いますよ、いやホントに。
さて、本題はここまでで最後に一つ。
実は、一人の人間の中には、ロウな部分もカオスな部分もニュートラルな部分も「共存」してると思ってます。
なんですけど、それは「ペルソナ(今やってる所)」をやってから、書きたいと思います。
あと、ロウとカオスとニュートラルは、思想軸(個人的には横軸(差が無いので)って言ってます)であり、
道徳・倫理観の軸(個人的には縦軸(差があるので)って言ってます)もあるんですけど、
これも、いつか書きたい所ですね。
とりあえず、現時点ではこんな風に思います。
参考:
真・女神転生Ⅳ
http://www.amazon.co.jp/dp/B00BIYSEFA寄るべきは 相手じゃなくて 己が腕
http://d.hatena.ne.jp/gallu/20090225/p1秩序と混沌
http://www.geocities.jp/h0195012/rpg/law_chaos.htm
テーマ:日記 - ジャンル:日記
- 2013/08/18(日) 23:52:21|
- 思想
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
いや、最近FF6が好きという方を知りまして、
そういや僕もFFの中で一番好きだけど、何でだろうなと考えていたんですよね。
で、「群像劇」だからだろうなぁと。
まぁ、それ以外にも、
世界が崩壊して絶望中の絶望の様な最悪の状態から、
希望や光を見つけていくという世界観も好みなんですけどw
そんなに絶望感が無い状態から平和をとか言われても、
別に絶望的な状況じゃないんだから、
何もしなくて良いんじゃないとか思いますし。
話を戻して、改めて群像劇について。
で、考えてみたら、
FF6は勿論の事、
DQも4が一番好き(決して後付けではないw)ですし、
映画も「タワーリング・インフェルノ」とか、
「パルプ・フィクション」とか、
「ナイト・オン・ザ・プラネット(これはオムニバスだと思いますけど)」とか、
「マグノリア」とか、
「THE 有頂天ホテル」とか、
「大失恋(これもオムニバスかな)」とか、
好きですしね。
あと、Missingも多少その要素が有る感じ。
更に、実はDDFFも群像劇(でしょう?)だったという!
どうして、群像劇が好きなのか。
いくつかあるんですけど、
まず、「誰もが主役」って辺りがあるんじゃないかなぁと。
英雄チックな主人公が一人いて、
で、主人公に付いていく人がいて、
敵をやっつけていくっていうのは、
まぁ、こっちの方がカッコいいとは思うんですけど、
「主人公、大変じゃね?」って思うんですよ。
といっても、今の日本が英雄チックな主人公を求めているのは知ってますけどね。
選挙結果に良く出てると思いますし。
ただ、「私は脇役が似合っています。器的にも。」って人物もいますけど、
でも、「貴方だって、主役になれるでしょ?今は違うかもしれないけど、
少なくとも、生まれた時点では誰もが赤ちゃんで大して差異は無い」はずですし。
勿論、群像劇の主人公達の中で、
多少序列が出来る(DDFFだとライトニングとWOLがやや上とか)というのは、
あると思いますけど、
でも、非群像劇な作品に比べたら、全然少ないと思いますし。
次に、群像劇だと、
「色々な立場や視点を感じやすい」というのもあるかなぁと。
「正義と悪」みたく、単純な構造になりにくい(DDFFでも仲間割れとかしてるし)ですし、
その方が、むしろ自然で現実的だと思いますし。
あと、これは群像劇に必須の要素じゃないですけど、
例えば、エリートで有名で脚光を浴びまくっている人と、
知名度ゼロで社会から見放されている人を、
どっちも主人公にして、対比させるっていうのも面白いと思いますね。
逆に、欠点というか、個人的には欠点じゃないんですけど、
「ストーリーが難解になりがち」なので、
作る側も観る(読む)側も大変だとは思いますね。
実際、難しいでしょうねぇ。
特に、よくありがちな「最後で関連付ける所で、どう関連付けるか」は。
正直、上記のマグノリアなんかは、その関連付けの意味が分からなかったってことで、
もう一回観てみたい気はしてますけど。
オムニバスだと、その関連付けるというのが無いと思うので、
その分簡単なわけですけど、その分面白さも下がると思いますし。
でも、こうやって書いていて「死ぬほど」書きたくなったのも事実w
まぁ、まずはオムニバスから書いてみますかね、それなら書けそうですし。
しっかし、自分が群像劇が好きだったというのには、ホント気付きませんでしたよ。
ってことで、この記事を残しておきたいと思います。
テーマ:日記 - ジャンル:日記
- 2013/05/26(日) 22:28:48|
- 思想
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
滝打ち2日目。
タイトルの通りなんですけど、
「同じ人間同士、伝えればきっと伝わるはず」って思っている時点で、
「間違っている」んだろうなぁと。
Missingの、とある下りを読んで、確信したことなんですけどね。
というか、そもそも「人間」って何ですか?って話があるんじゃないかと。
生物学的な「ヒト」(この辺、全く知りませんけどね)だったり、
法律上の「人」(これも知らない)っていう定義だったり、
他にも色々あると思うんですけどね。
自分は、人間の一つの要素として「他人を思いやる情がある」というのが、あると思います。
あと、「考えることが出来る」というのも。
でも、現実を見ると、
「他人の話も聞かずに、何も考えずに、他人も思いやらずに、自分の欲望のままに生きている人」
や、
「他人の意見を何も考えずに鵜呑みにして、間違っていた時には、その他人が悪いという人」
や
「本人の現状を考えれば、そこは答えを教えない方が良いのに、答えを教えて情を集めようとしている人」
や、
「何かおかしな事を言っている人がいるけど、あの人が"狂人"なだけで、自分達は間違ってないと思う人」
とかが、いらっしゃるわけです。
まぁ、「罪の度合い」は、上記それぞれで、また具体的なケースによって違うのは勿論として。
で、最後の「狂人」の所について触れると。
「狂人」って言葉を使う人は、
自分が知らない理解出来ない事を言っている人に対して、「狂人」というレッテルを貼って、
「そんな事は知る必要がない」って、「安心」したいだけなんじゃないですかね。
でも、自分は、以下の言葉の通りだと思いますけどねぇ。
いい言葉だ↓
「知らないことについては、その必要性すらわからない」
知らないし、理解出来ないから「狂人」と見なすんじゃなくて、
学んで理解していこうとは、思わないもんなんですかね。
と思う一方で、同じ人間とはいえ「今見ている世界も、生きてきた環境も、何もかも違う」ので、
「そんな事を知るつもりはない」っていう考えも、自分は「正気」だと思います。
こう言うと、例えば昨今話題の九州の某市長について、
「あんな事を許せるわけがない、そこに住んでいる市民が可愛そうじゃないか」
という話が出てきそうですけど、いやそりゃあ可愛そうだとは思いますよ。
で、一人でも多くの人に伝えようとする行動も悪いとは思いませんよ。
でも、それに「ひたすら執着する」のも、時間は有限な中、勿体無いとは思いませんか。
「バカの壁」の通り、「言ってわかるとは"限らない"」ので、
時間配分の問題だとは思いますけど、
「もっと、自分の人生にとって、有益な事に時間を使った方が良い」
んじゃないかなぁと、思いますけどね。
というのもですよ。
「分かる」とか「知ってる」とか「出来る」とかってステータスが有る時点で、
「分からない」とか「知らない」とか「出来ない」ってステータスも有ると、暗に示唆してるんじゃないかと。
みんな同じなら、上記の様なステータスは出てこないんじゃないのと思うわけです。
「生」って概念があるから、「死」って概念があるっていうのも、同じ話ですね。
要するに、「対」になっているもの全部。
だから、「話が通じる人」っていうのと同時に、
「話が通じない人」っていうのも、いらっしゃるわけです。
で、それは、「どうにかなる」場合もあれば、「どうにもならない」場合だってあるわけです。
ですから自分は、自分が知らないが故に"狂人"に見える場合には、自分が学び、
「言っても多分分からないのだろうな」と感じた場合には、以下の様に思い生きていこうと思います。
人間の姿をした「魔物」だと。
テーマ:日記 - ジャンル:日記
- 2013/02/04(月) 06:51:12|
- 思想
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0